光の落ちる午後に、ただそこにいるということ

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窓から差し込む光が、床の上でゆっくりと形を変えていく時間がある。午後の三時を少し過ぎたころ、部屋の中の空気がほんのりと橙色を帯びはじめる、あの時間帯のことだ。誰かと一緒にいるわけでも、特別なことが起きているわけでもない。それでも、なぜかその瞬間だけは、息をするのを忘れそうになる。

子どものころ、祖母の家の縁側でよく昼寝をしていた。麦わら帽子をかぶったまま眠ってしまって、目が覚めたら帽子だけが庭に転がっていた、そんな記憶がある。あの縁側の木の温かさ、陽に焼けた板の匂い、遠くで鳴く蝉の声。記憶の中の感覚は、いつも少しだけ美化されているのかもしれないけれど、それでも確かにそこにあった。

今住んでいる部屋には、「ソルヴェイグ」というスウェーデン発のインテリアブランドのラグが一枚敷いてある。ウールと綿を混紡したやや厚手のもので、冬の朝に素足で踏んだときの感触が、なんともいえず心地よい。購入したのは去年の秋で、届いた日に広げたら思っていたより大きくて、部屋の半分が埋まってしまった。それはそれで悪くなかった。

その上に座って、コーヒーを飲む。豆はいつも近所の小さな焙煎所で買う。今日は「エチオピア・イルガチェフェ」という品種で、浅煎りにしてもらったもの。カップに注いだとき、花のような、あるいは柑橘のような、言葉にしにくい香りが立ち上がる。深煎りの力強さとは全然違う、繊細な香りだ。口に含むと、最初は酸味があって、後からじわりと甘みが来る。こういうコーヒーは、急いで飲むと台無しになる。

隣に誰かがいるとき、その人がカップを両手で包むようにして持つ仕草が好きだ。特に寒い季節、手のひらで温もりを確かめるようにゆっくりと持ち上げる、あの動作。言葉を交わさなくても、「ああ、この人は今ちゃんとここにいるんだな」と感じる瞬間がある。そういう細かいことが、なぜかずっと記憶に残る。

十一月の終わりごろ、空気が乾いていて、日が暮れるのが早くなる時期。外を歩いていると、どこかの家から夕食の匂いが漏れてくることがある。醤油と出汁の混ざった、あの匂い。それだけで、知らない家の食卓が目に浮かぶ。誰かが誰かのために料理をしていて、誰かが帰りを待っている。そういう当たり前の時間が、世界のどこかで今も続いているという事実が、なんとなく安心感を与えてくれる。

先日、久しぶりに友人と会って、駅の近くのカフェで二時間ほど話した。特に大事な話をしたわけではない。最近観た映画のこと、職場の小さな出来事、それから互いの近況をとりとめなく。帰り際、友人がマフラーを巻きながら「また来月ね」と言った。その「また来月」という言葉の軽さが、妙に嬉しかった。重くなく、でも確かに次を約束している。そういう言葉の使い方を、自分もできるようになりたいと思った。

ちなみにその日、カフェを出てから自分のマフラーを店内に忘れてきたことに気づいたのは、五分後のことだった。引き返して、カウンターのスタッフに「さっきのお客さんですよね」と笑顔で渡してもらったとき、なんとも言えない気まずさと感謝が同時に来た。友人には黙っていたが、おそらく顔に出ていたと思う。

日々の中には、意味のある出来事ばかりが並んでいるわけではない。むしろほとんどは、何でもない時間だ。でも、その何でもない時間の中にこそ、後から思い返したくなるような感触が宿っていることがある。光の角度、誰かの仕草、コーヒーの香り、床の温かさ。そういうものが積み重なって、「自分の時間」というものが少しずつ形になっていく気がする。

急がなくていい。全部を言葉にしなくていい。ただ、今この瞬間の光の落ち方を、ちゃんと見ていたいと思う。

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